HOME | 親鸞聖人和讃に学ぶ

親鸞聖人和讃に学ぶ 

亡き人と共に
―東日本大震災の悲しみに
学びつづけたい

龍谷大学文学部教授 鍋島直樹


写真 2011年5月8日 南三陸町泊浜避難所 追悼法要
 
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 
釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし(『浄土和讃』二〇)
ひとは死んだらどうなるのでしょう。親鸞聖人はこうおっしゃいました。
人が亡くなると、阿弥陀如来の願いの力によって、安楽浄土にいたります。安楽浄土の華のなかから生まれて仏さまに成ります。仏さまに成って、濁ったこの世界に還ってきて、お釈迦様のようにあなたを照らし、あなたを護ります。
悲しいのはなぜでしょう。悲しいのはそれだけその人を愛し、その人に愛されているからでしょう。悲しみを思い起こすと、大悲にいだかれます。あなたが悲しい時、大切な人が仏さまに成って、あなたを慰めてくださいます。だからこそ、如来の大悲にいだかれて、亡き人に導かれ、亡き人と共に生きていきたいです。
大切な人を亡くした悲しみは深い。この死別の悲しみをどのように乗りこえていけばよいのだろう。
日本中世の親鸞聖人は、三つの角度から死別の悲しみに寄り添った。
第一に、泣きたい時には泣けばいいと説いた。涙は愛情の証だからである。第二に、悲しむ心を少し休ませてくださいと話した。「酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほどになぐさめて去るべし」。つらいときに、もし「忘憂」というラベルのお酒があれば、思わず飲んでしまいそうである。コーヒーとケーキ、お茶と和菓子もいい。心を許せる人と飲み物を酌み交わし、一緒に食事をすると、ほっとして笑顔が生まれてくる。こうした弔いの伝統は今も生きている。人が亡くなった後、通夜、葬儀、年回忌、お彼岸、お盆などの法事がある。季節のめぐる中で、遺族は亡き人に花を手向け、亡き人を偲び、自分が生きていることに感謝する。また、追悼を通して、防災を子や孫に語り継ぎ次世代を守る。第三に、死を超えた依りどころが心の中に生まれると、悲しみと共に生きていくことができる。のこされた家族は、仏さまになった亡き人と共に生きている。
東日本大震災 遠藤未希さんの愛
私は神戸市で生まれ育った。一九九五年の阪神淡路大震災で寺院が半壊した。余震がつづき不安で怖かった。その時、世界中からの支援が生きる力となった。東日本大震災が起こってから、何かに突き動かされるような思いになり、東北の地に行った。災害直後、遺体安置所や避難所を訪問し、支援物資を配り、人々の求めに応じて読経した。冊子『死別の悲しみと生きる』を届けた。町職員の願いを受け、行方不明者の家族や愛する人を亡くした家族を訪問している。
遠藤未希さんは、宮城県南三陸町の危機管理課に勤める町職員であった。遠藤未希さんは、二〇一一年三月一一日の大地震後、防災対策庁舎の二階放送室で、「大津波が予想されますので急いで高台に避難してください」と町民にマイクで呼びかけつづけた。それは、ひとえに人々の安全を願って放送しつづけたものであった。しかし大津波が襲い、彼女は亡くなった。上司や同僚も流された。実際の津波の高さは、気象庁の予測とは異なり、一六メートルにも及んだ。町職員は全員屋上に避難したが、防災庁舎の屋上まで水没したため、もはや逃げることもできなかった。二〇一一年四月二三日に、海上保安庁により、沖でご遺体が発見された。同年五月八日、町職員や遺族の要請を受けて、泊浜避難所で遠藤未希さんたちの追悼法要を行った。その後、遠藤未希さんの両親と交流を重ね、南三陸町の自宅にうかがった。遠藤未希さんの両親はこう語った。「多くの方々が未希の死を哀悼してくださったことを心から感謝しています。それと共に、娘の未希のとった行動を、美談にしてほしくないという気持ちもあります。未希は津波の恐ろしさを知っていたら逃げたにちがいない。未希が逃げていてほしかった。そんなに頑張らなくても生きていてほしかった。そう未希の夫も話してくれました。どうか津波の脅威を伝えてほしい。人間の驕りを捨て、自然への畏敬の念を忘れず、大地震や大津波の際には、誰もがすぐに避難することを教訓として伝えていってほしい」。
そして、未希さんの父親、遠藤清喜さんはこう話してくれた。「悲しみは決して消えることはない。季節ごとに娘のことを思い出す。毎日、その日をなすべきことを果たしてなんとか生活しているだけである。それから、少しずつこう思うようになった。生き残っている者には、それぞれ必ずその役割がある。そう思うようになってきた」。
母親はそばでその言葉を深くうなずいて聞いていた。この言葉に心動かされた。今後も私自身が、大震災の悲しみと無念さからあふれてくる希望を、被災地の方々に聞き、未来の世代に伝えたい。どのようなつらい別れを経験しても、一人ひとりが自分の人生に生まれてきた意味があったと思えるように。絶望の闇に届く光を仰ぎ、自分も、大切な人も愛せるように。
 

☆HP 未希の家  ご予約・お問い合せ専用電話(十時~十九時)
080-5003-6442
 
 
 
「行方不明の夫に宛てたラブレター」
二〇一一年、東日本大震災が起こった。その地震発生後、四〇分ほど経ってから、十五メートル以上の津波が幾度も町を襲い、人々の命を奪った。このラブレターは、気仙沼市で、津波にまきこまれて、夫が行方不明になった女性、菅原文子さんの手紙である。彼女は二〇一一年夏にこのラブレターを書いた。この恋文が「柿本商事」の手紙コンクールで「恋文大賞」を授賞した。この恋文をご縁として、菅原さんご家族と交流を続けている。
「あの日忘れようにもわすれられない東日本大震災が起きました。あなたは迎えに行った私と手を取り合った瞬間、凄まじい勢いで波にのまれ、私の前から消えました。あなたはいったい何処へいってしまいましたか。・・・・聞いて貰いたい事が山ほどあって、心の整理もつかないけれど、手紙を書くことにしました。・・・・何も言えずに別れてしまったから、ありがとうと伝えたくて切なくて悲しくてどうしようもないけれど、三十八年間、一緒にいてくれて仲良くしてくれて、ほんとにありがとう。・・・・これからはあなたが必死に守ってきたお店ののれんは私が息子達と守ります。・・・・何としても帰ってきてください。家族みんなで待っています」。
愛する人が行方不明となった家族はすべて、その人の帰りを待っている。どれほど時が経過しようとも、帰りを待っている。私は、東北の被災地に住む菅原さんや遺族を訪ね、色紙を贈った。「愛する人は教えとなって、手を合わす心の中に還ってくる」と。また、金子みすゞ『星とたんぽぽ』の絵本を手渡した。「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜のくるまで沈んでる、昼のお星は眼に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」。愛情や優しさは眼には見えなくても、人にぬくもりを与えるように、眼には見えないもの大切さをこの詩は教えてくれる。
長い時が流れた。震災から一年三カ月を経たある日、菅原文子さんから手紙が届いた。「主人が帰って参りました。昨日倒壊家屋の中から発見されました。主人は一年三カ月もの間、その場所でずっと私たちの姿を見ながら、この時を待っていたのだと思います。・・・・昨夜、確認のため警察署で、家族が主人の着衣と対面しました。長い月日、私たち家族と会うために、じーっと頑張っていてくれたと思うと、涙が流れて仕方がありませんでした。どんなに辛かったのかと。私たちも辛かったけれど、過ぎ去った日々のことを想い、さまざまのことが思い出され、只々泣きました。毎日、お仏壇の色紙を眺め、合わす手の中に還ってくると合掌していました。ようやくこの胸に主人を抱きしめることができます。・・・・これからは安心して泣き、安心して手を合わすことができます。きっと様々の困難の道とは思いますが、何もおそれることはありません。せっかく生かされ主人が守ってくれた命です。ずーっと閉じ込めていた想いがあふれます」。
人は亡くなると、その姿形は見えなくなり、何もなくなってしまう。それは確かにそうかもしれない。しかし、その人から受けた愛情、その人にささげた愛情を忘れないでいることができるのは、今ここに生きている自分自身だけだろう。あなたの流した涙を、幸せの種に注ぐことができれば、いつかきっと新しい幸せの花を咲かせることができるにちがいない。
悲しみから生まれる慈しみがあることを次世代に伝えていきたい。
 
☆「負げねえぞ気仙沼」すがとよ酒店 
辛口・伏見男山 旨口・金紋両国 4合瓶 1250円
Tel&Fax: 0226 24 1111